人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日々の雑感


by さむちゃん
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

ご挨拶

このたび大きな決断をしました。お知りおき頂ければ幸いです。
ご挨拶_a0158075_20462018.jpg

# by attainmentofall8 | 2020-09-02 20:44 | 政治/経済 | Comments(2)

雑感(3)

音調でみる短歌と俳句

石原 修

斎藤茂吉が師である伊藤佐千夫の死の知らせを滞在中の北諏訪の常宿できき、赤彦に知らせに走るときの一首。茂吉の第一歌集「赤光」(初版大正2年)の巻頭歌でもあり知らない人はいないくらい有名な歌である。

ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道くらし

(ひたはしる わがみちくらし しんしんと こらへかねたる わがみちくらし)

「し」音の連続による音調の良さがこの句の持ち味だろう。4句以外にすべて「し」がバランスよく配置され、結句の止めが「し」になっているために「死」を強く連想させ、挽歌にもなっている。

また内容的にも、教科書的理解にとどまらずよく読み込んでみると、掛詞によって多くの情報が重層的に凝縮されていることがわかる。まず初句は、「ひた走る」の中に「飛騨」「悲嘆」「知る」そして何より「死」が埋め込まれている。二句目は、夜道を歩いているために、「我が道暗し」だろうが、同時に「わが身」にも通じ、「神」にも響き、「暗し」は「暮し」ともとれる。そしてここにも「死」がある。しんしんは、「しん」を辞書でみると30近い漢字が出てくる。辛、信、神、真、深、進… 茂吉の脳裏を去来する諸々の思いを詰め込んだ短歌の「腰」にあたる部分である。「し」の連続によって「死」を核にイメージが広がる。そして4句目の「こらえかねたる」は「怺へ」「子等へ」「兼ぬ「「予ぬ」「金」「鐘」「たる」「足る」に通じる。「子等へ」や「予ぬ」などいづれも万葉集に用例をみつけることができる。万葉集を研究していた茂吉らしい使い方である。結句には、二句と同じリフレイン句。「し」は全部で5つあり、切迫した悲壮感漂う雰囲気と、未来に対する不安感が混然一体となって鬼気迫る一句になっている。まさにスキゾの茂吉を彷彿とさせる。

内容に合わせた一首の音調を意図的にしかも自然に作り上げているところが茂吉のすばらしさであろう。

俳句でみてみる。

金子兜太の破調句ではあるが超有名な代表句である。

湾曲し火傷し爆心地のマラソン

(わんきょくし かしょうし ばくしんちの まらそん)

原爆の悲惨さを、また戦争の悲惨さを自身の従軍体験を踏まえて詠んだのだろう。「し」が4回出てくる。当然「死」を喚起させる。そして同音異義語によって多様な意味を包含させている。「わん」は「won(勝利)」「one(一発)」に通じ、「きょく」は「極」「棘」「局」「巨躯」を暗示し、「かしょう」は「火傷」にとどまらず「仮象」「火生」「煆焼」を連想させる。「ばくしんちの」では、「爆死」「苦心」「侵地」「血」も音として含まれている。結句の「マラソン」に兜太の祈願、願望が込められているように感じられる。原爆被害者の病苦や心の痛みの継続性をマラソンにたとえたものと思われる。「ん」で終わらせることで、ノーモアヒロシマの思いが一層強く表現されている。

蛇笏の代表句を母音のみの音調で確認してみたい。

をりとりてはらりとおもきすすきかな

(oioie aaioooi uuiaa)

WOはO、RIはI、TOはOのみを並べてある。劇団四季の発声練習では、俳優たちがこの母音のみを声に出す練習をして劇場に響く声を鍛えている。この方法で、この句をみてみると、この句の音調の良さは、初句と中七の「O」音の連続と、二つの「りと」、さらには「おもき」と「すすき」の脚韻によるだろう。母音でみると、(oioi)(ooi)(uui)の部分にリズムを特に感じる。もちろん、内容的にも気づきの感動と、ひらがな書きによる視覚的心地よさもこの句を名句たらしめている。

虚子の名句はどうだろうか。

流れゆく大根の葉の早さかな

(ながれゆく だいこんのはの はやさかな)

(aaeuu aionoao aaaaa)

母音の「a」の多用が音調を良くしているだけでなく、一句の内容から見ても、景と言葉の流麗さがマッチしてまさに舌頭に千転した痕跡の見られる名句といえる。

牧水の歌で見てみる。この歌は、伊藤一彦氏が「華」の講演のおり、「よくわからないけどいい歌ですよね」とコメントされたいわくつきの歌である。「よくわからない」というのは、文法的になのかロジカルに良さを表現できないという意味なのか不明だが、メロディーがついているかのような響きの良さがあることは確かである。

瀬々走るやまめうぐいのうろくずの美しき春の山ざくら花

(せぜはしる やまめうぐいの うろくずの うつくしきはるの やまざくらばな)

(eeaiu aaeuuio uouuo uuuiiauo aaauaaa)

結句が4句目までの修飾句をすべて受けていると解釈しているが、その修飾語の重々しさが感じられないのは、なぜだろうか。恐らく音調の良さからきていると思う。それは何といっても「u」音の連続によってリズミカルに結句まで読み下してしまうところだろう。細かく言えば、初句は二句目を修飾、その二句目が三句目を修飾、さらに三句目の「の」は主格とみなされ「美しき」は述部になる。その「美しき」が「春」を修飾し、四句目全体が結句を修飾するという重層構造になっている。マトリョーシカのようなもので、結局山桜の美しさに感動している歌である。春のうろくずの泳ぐ渓流は状況説明にすぎない。呟くような音調からしだいに明るさを増していき結句の開口音で即吟一首の完成を「やった」と言わんばかりにきこえる。

最後に、北原白秋の歌でみてみる。

春の鳥な啼きそ啼きそあかあかと外の面の草に日の入る夕

(はるのとり ななきそなきそ あかあかと とのものくさに ひのいるゆうべ)

(auooi aaioaio aaaao oooouai ioiuuue)

春を喜ぶような明るい「a」音で三句目までくると、後半部は一転「o」「u」の重厚な響きにきこえる。まさに言葉の流れが音楽を奏でているように感じられる。


# by attainmentofall8 | 2020-08-13 06:12 | 俳句/短歌/川柳 | Comments(0)

雑感(2)

雑感    石原 修

高浜虚子は、正岡子規亡き後、河東碧梧桐と袂を分かち「ホトトギス」の本格的経営と、客観写生俳句の継承を託されることになる。

 春風や闘志抱きて丘に立つ

新興俳句に対する虚子の決意表明である。秋風や凩ではなく「春風」としたところに、子規の提唱した客観写生へのゆるぎない自信とホトトギスの仲間たちの存在を意識しているように思われる。

虚子の俳句界における手柄の一つは、ホトトギスに「台所雑詠」を設けて女性俳人を育てたことであろう。経営上の深慮があったとはいえ、今日の俳句人口に占める女性の割合が7割とも8割とも言われる状況を考えると、虚子には先見の明があったといえる。長谷川かな女や阿部みどり女、そして杉田久女が育った。少し時代は下がるが、中村汀女、星野立子も虚子に育てられた。

台所雑詠とはいえ、虚子は女性の感性の鋭さと女性にしか生み出せない世界があることを十分認識していたようである。推察するに、紫式部・清少納言などの女流文人の生み出した作品が頭にあったのは間違いないだろう。

実際女性俳人たちは虚子の期待を裏切るどころか素晴らしい作品を生み出していった。

俎板の染むまで薺打はやす    かな女

羽子板の重きが嬉し突かで立つ  かな女

ざらざらと櫛にありけり花埃   みどり女

白足袋や帯の固さにこごみはく  みどり女

夕顔に水仕もすみてたたずめり  久女  

鯛を料るに俎板せまき師走かな  久女

松の根の苔なめらかに清水吸ふ  久女

菊の日に雫振り梳く濡毛かな   久女

特に久女は鹿児島生まれということ、また波乱万丈の人生を送ったことで知られているが、女性の細やかな視点が生かされている。ホトトギス同人を除名されたとはいえ、子規の提唱した客観写生をふまえ、感情を抑制し止揚する作品に仕上げる見事さはすばらしい。

一方で「けなされる其理智を感情と混同したがり、時々は命がけにもなる。定規で引いた如く万事が理詰めでゆかぬ」などと、立場が危うくなると感じた男性たちの中には女性俳人を非難する者をいたらしいが、現代からみれば何ともアナクロニズムに聞こえる。女性の俳句・短歌をみて、男性がとても太刀打ちできないと観念させられるのが、例えばこんな作品に出合った時である。

 胎の子が逆さにねむり大暑なる  中山純子

 山笑ふ胎動ときに臍の裏     仙田洋子

 不可思議は天に二日のあるよりもわが体に鳴る三つの心臓 与謝野晶子

 英霊の生きてかへるがありといふ子の骨壷よ振れば音する 柳原白蓮

川柳の世界になるともっとどろどろとしていて、男には絶対に踏み込めない世界があることを自覚させられる。

 子を産まぬ約束で逢う雪しきり  森中恵美子

 

 墓の下の男の下に眠りたや    時実新子

 女性恐るべしとなってしまう。女性特有の性とそれに伴う体験、メンタリティは、渡辺淳一の言葉を借りれば、「ものの数秒で済んでしまう男の有限の性と比較して、女性の性行為は単なる性行為にとどまることなく、受胎・長い妊娠期間を経て子どもを産み育てるという可能性を秘めたものである。それゆえ、創造主は女性に男とは違う性の感覚・あるいは心持ちを与えたのかもしれない。」きっとそうであろう。女性は子宮で考えると言われるのもうべなるかなである。

 短歌でこの点をもっと見てみたい。

 みごもれば感官一途に尖りゆき柑橘の強き酸を欲せり    小島ゆかり

 海原にうしほ満つべし現身を揺り上げていま吾子うまれたり 小島ゆかり

 十界に百界にまだ知らぬこと一つあるごとし身ごもりしより 与謝野晶子

 産のあと頭つめたく血の失せて氷の中の魚となりゆく    与謝野晶子

育児・子育ては抜きにして妊娠出産だけでも、男の目から見ればたいへんな経験であるにもかかわらず、与謝野晶子は、双子二組を含む十二人の子どもを産んでいる。妊娠中の苦しさ辛さ、そして出産のときの塗炭の苦しみ。キャッチャーが、取り損ねたボールを股間に当てた痛みの十倍くらい痛いと言われてもあまりピンとこない。

うかがい知ることのできない特殊な世界であるにもかかわらず女性の感覚を体験してみたいと思う男性もいるようだ。ネットで見つけた「塔 孕みえぬ男」のサイトより。

 ペットボトル八分目まで水を入れて胎児の重さ片手で想ふ  大松達知

 おなじもの食みつつ吾の身のうちに育つものなし昼過ぎて雨 光森裕樹

 往々にして新奇さだけが話題になる。実体験できないゆえにたとえその周辺を詠んだところで空しいものを感じる。せいぜい女性に「かわいい」と言われて終わってしまうのが落ちかもしれない。

短詩型文芸の分野における女性の感性の鋭さを実感するにつけ、また男性の次のような俳句や短歌を目にすると、もしかして時代は逆行しているのではないかと錯覚する。「男子厨房に入らず」の時代から、法整備が整い男性もあまり抵抗なく家事育児ができる環境を考えると、結局、時代は巡り巡って虚子が大正時代にホトトギス誌上にもうけた台所雑詠は将来の男性のため用意されていたのではないかと思いたくもなる。

 パソコンのレシピ男の夏料理  岡米二

 

 買物籠下げてスーパーをゆくわれが鏡に写るさまになりゐる  市村善郎

 


# by attainmentofall8 | 2020-08-13 06:10 | Comments(0)

短歌雑感(1)

 雑感

石原 修

短歌を始めるずっと前、短歌については何も知らないころのことだが、

寺山修司の短歌

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

に出会ったとき、「ううぅ…寺山修司は天才だ!」と思ったことがある。石川啄木の

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく

を下敷きにしているのは明白である。教科書で習う有名な短歌をこれほど素晴らしい作品に仕上げてしまうとは恐るべき能力と思ったのである。残念ながら、その時は寺山の才能に感嘆しただけで自ら短歌を作ってみようとは思いもしなかった。川涯先生に出会うまで何十年かの歳月が流れた。

四年ほど前、俳句の仲間から川涯先生を紹介されそののち万葉集講座をメルヘン文学館で受講したのが、短歌を始めたきっかけである。それまで俳句を10年ほどやっていたので違うジャンルとはいえ、興味深く取り組むことができた。朗々と張りのある声で歌を読まれる川涯先生に心酔してしまったのが短歌を続けてこられた理由かもしれない。

大伴旅人の酒を讃むる十三首を解説されながら、「次回までに興味のある方はぜひこの十三首を覚えて来てください」と言われた。根が真面目なので、暗記していったのがよかったのだろう。何となく短歌のリズムがわかったように感じた。そして、佐藤佐太郎の入門書を勧められたのでそれもすぐに購入。阿久根の歌会にも加えていただき細々と歌作りを続けているというところである。

冒頭の話に戻ると、結局文芸も理系の世界と同様に先行研究(作品)をもとに進化発展していくものなのだなと思う。山中教授のiPS細胞も、大隅教授のオートファジーも先行研究の上に生まれた大発見である。

短歌でも、枕詞や序詞・掛詞のような表現技法の上に折句(沓冠)、本歌取りなどが生まれ、さらには句点付き、ひらがな書き、三行書き、口語短歌などなど新境地が開かれてきた。中でも、注目したいのは本歌取り(本説取を含めて)である。厳密な意味での本歌取りではないが、新しい作品の創出という観点から微妙な拝借が行われることが文芸の世界でも日常茶飯であるようだ。盗作の疑いをかけられかねないことでもあるが、初心者に限らずある程度の上級者でも避けて通れないことのようである。

俳句の世界で有名な論争があった。

いきいきと死んでゐるなり水中花 櫂未知子

という先行俳句に対して、奥坂まやは

いきいきと死んでをるなり兜虫  

と作ってしまったのである。奥坂作品ははたして盗作となるのか。

有名な中村草田男の俳句

降る雪や明治は遠くなりにけり

これにも、志賀芥子の次のような先行俳句があった

獺祭忌明治は遠くなりにけり

また逆に草田男の句が川柳の世界で次のように使われている。

葡萄食ふ一語一語の如くにて

葡萄ひとふさ王様のように食う 新家完治

ことほど左様に、絶妙に新たな作品が生み出されているのである。

再度、寺山修司の職人技を見てみたい。

わが天使なるやも知れず寒雀 三鬼

わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 修司

蛮声をあげて晩夏の森に入る 数雄

蛮声をあげて九月の森に入れりハイネのために学をあざむき 修司

最短詩型の俳句の短所である「舌足らず」の表現をみごとに逆手にとってまったく別の世界を現出させている。修司にとって短歌という火を燃やすのに俳句ほど素晴らしい薪はなかったのだろう。

 

 オリジナリティーのある作品と言っても、結局何らかの影響を受けていることを否定できないとも言える。翻って、初心者が歌作りに先行作品を安易にまねたところで出来はを知れているが、できるだけ幅広く歌集を読み漁ることと、名歌といわれる作品をまさに舌頭に千転することが上達の近道かもしれない。意味が理解できないような幼少時にそのような環境があれば良かったのだが今さら悔いても仕方がない。インプットに重きを置いた短歌とのかかわりにかすかな望みを託すしかない。

作家の車谷長吉は、桂信子の

 ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

を、ふところに乳房ある憂さ秋暑し

としてしまったために筆を折らざるを得なくなって命を縮めたのは有名な話である。

インプットされたものが熟成発酵するうちに、他人の作品も自分の作品も分からなくなってしまったのだろう。意図的にこんなへたなことをするはずがないと思いたい。さはさりながら、誰にでも起こり得そうなことに思える。肝に銘じつつ先人の作品に貪欲に触れていきたい。


# by attainmentofall8 | 2020-08-13 06:03 | 俳句/短歌/川柳 | Comments(0)

珍しい蘭

珍しい蘭_a0158075_06515070.jpg
珍しい蘭_a0158075_06524207.jpg

# by attainmentofall8 | 2020-07-31 06:50 | Comments(3)