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天正15年(1587年)4月、九州制覇をもくろむ島津氏に対して豊臣秀吉は書状により止めるよう諭すが聞き入れられず、25万の兵をもって3方より薩摩に攻め入ってくる。秀吉の水軍は川内川の河口より侵入し、一夜城を築いたのがここ猫岳である。標高はわずか120m。猫が寝ころんだ姿に似ているのでこう呼ばれるらしい。秀吉はこの猫岳で、平佐城を攻めるために数日間陣を張ったという。
登山用の小道が、人家の裏からコンクリートの階段付きで頂上までできている。かなり急なところもあるが標高が低いのでさほど苦も無く登れる。眺望は周りの雑木に阻まれてあまりよくないが、すきまからわずかに見える程度である。登る途中にアカテガニというカニがたくさんいるので驚いた。猫岳ならぬカニ岳じゃないかと思ったほどだ。



登山用の小道が、人家の裏からコンクリートの階段付きで頂上までできている。かなり急なところもあるが標高が低いのでさほど苦も無く登れる。眺望は周りの雑木に阻まれてあまりよくないが、すきまからわずかに見える程度である。登る途中にアカテガニというカニがたくさんいるので驚いた。猫岳ならぬカニ岳じゃないかと思ったほどだ。




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by attainmentofall8
| 2012-10-02 15:57
| 川内の名所
市立中央図書館の正面脇に記念碑が建っている。ひまわりの植わった花壇の中にあるので気付かずに通り過ぎてしまう。若くして亡くなった郷土出身の劇作家と歌人のものである。
石碑の右側が歌人岩谷莫哀(明治21年4月18日~昭和2年11月20日)の歌。
たへて来しこれのつきひの
わびしさもなれては
うれしまつかぜのおと
岩谷は歌人尾上紫舟に師事していたが、40歳で病没。
左側は坪内逍遥に師事して劇作家を目指して研究していた今井白楊(明治22年12月3日~大正6年8月2日)の詩である。今井は犬吠埼の海で29歳で溺死している。
そうだ 闇は濃くて暗い
この世は罪悪が多い
甘い誘惑は総てに潜められてある
だが光のあるのは真理だ

石碑の右側が歌人岩谷莫哀(明治21年4月18日~昭和2年11月20日)の歌。
たへて来しこれのつきひの
わびしさもなれては
うれしまつかぜのおと
岩谷は歌人尾上紫舟に師事していたが、40歳で病没。
左側は坪内逍遥に師事して劇作家を目指して研究していた今井白楊(明治22年12月3日~大正6年8月2日)の詩である。今井は犬吠埼の海で29歳で溺死している。
そうだ 闇は濃くて暗い
この世は罪悪が多い
甘い誘惑は総てに潜められてある
だが光のあるのは真理だ


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by attainmentofall8
| 2012-09-20 22:26
| 川内の名所

かわづ鳴く神奈備川に影見えて今かさくらむやまぶきの花 厚見王
今あちこちで咲いている山吹を目にする。とくに渓流沿いに自生している山吹は趣きがあっていい。もちろん園芸品種の山吹も家々の花壇にみられる。山吹色というか濃黄色の花が南京玉簾のように群生して咲いているのはみごとである。ほろほろと山吹ちるか滝の音 芭蕉
山吹は実がつかないとよく言われるが、これは八重咲きの山吹に限ってのことで一重の5花弁の山吹はちゃんと実がつくそうだ。山吹は実がつかないというのは、太田道灌の故事からきているらしい。
道灌が雨の日にある家に蓑を借りに立ち寄ると、そこの娘が山吹の花を一枝手渡す。何のことかわからず後で周りのものに訊くと、
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき 兼明親王
の歌を下敷きにしていると教えられる。自分の無知さに発奮して以後歌道に精進したという。
後拾遺和歌集にある兼明(かねあきら)親王の歌の詞書(ことばがき)によれば、「別荘にいたとき蓑を借りにきた人がいたので、山吹の枝を渡してやった。翌日その人が、意味が分からなかったと聞いてきたので、この歌を詠んで渡した。」。「七重咲き八重咲きと、山吹の花が綺麗に咲いている屋敷だが、その山吹に実のひとつもできないように、この屋敷には蓑ひとつ無いんだから悲しいな」という意味。
太田道灌の話は後世のひとの作り話と言われている。確かに兼明親王の詞書の二番煎じっぽい。

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by attainmentofall8
| 2012-04-28 21:23
| 川内の名所
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