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日々の雑感


by さむちゃん
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切れ字「の」

外山滋比古著「省略の文学」を、先日ある方から頂いたので再読する機会を得た。高校の時、読んだのを記憶しているが、当時は内容までは十分理解できなかったように思う。それというのも当時は俳句など全く別世界のことと考えていた節があり、字面だけで内容までは読み切れなかったというのが正直なところである。

普通の文章のロジックを放棄する破格的語法をとるのが俳句であり、月並みな散文性を超克するための必然的方法である。リアリズムの立場から俳句を理解しようとすると、この論理の放棄による純粋詩性を逸してしまうと外山は言う。そして次の一句をあげている。

病雁の夜寒に落て旅寝かな 芭蕉
(やむかりの よさむにおちて たびねかな)

通説のように「病雁が夜寒に舞い落ちて旅寝をする」その姿に、旅に病む作者の孤独と哀愁が二重写しにされていると解釈されるが、そうとしても旅寝の主語を病雁とするか作者自身とするかによって、一句の余情は変わってくる。

「て」によって無理やり主格の転換を行って論理を捻じ曲げていることが、「て」のあとの空間が詩的作用を大きくすると考えられる。

この句の主格を一元的に病雁とするか、二元的に病雁と作者と解するかは「て」の切断力による。つまり散文におけるような意味は俳句には存在しない。
俳句が持っている含蓄は、各人によって異なる解釈を許す曖昧さでありそれが余情というものである。

外山は、旅寝の主格だけを指摘しているが、「夜寒に落ちる」の主格も作者ではないかと私は考える。つまり「病雁の」の「の」で切れるという超文法的異変が起きているとみる。一般的には、「の」は連体修飾語をつくる格助詞と考えられるが、日本国語大辞典には間投詞としての用法を挙げてある。文中の文節末にあって、聞き手を意識しての感動を表わす。間投助詞「な」に近いとある。

「花の色は移りにけりな」の「な」に近いわけである。こう考えると私の解釈もあながち間違いではないだろうと思う。
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by attainmentofall8 | 2016-08-11 22:24 | 俳句/短歌/川柳 | Comments(0)