川柳の解釈の違い
2016年 06月 04日
月刊川柳6月号の作品合評がおもしろい。
神田仙之助作品研究で5句を取り上げて、6人の川柳作家のコメントが載せてある。
これほど人によって解釈が違うものかと驚くと同時に、川柳大会などで自作が抜けなくても全然気にすることはないとあらためて思ったしだいである。
一句だけコメントを要約してみる。
蚤の市陽を除けているマリア様 神田仙之助
大石氏)マリア様は教徒である自身のことであろうか。罪人の手によってここまで流れ来た
のかも知れない物には触れてなどならない。
刑部氏)尊いマリア像を粗末にしない骨董屋の気配りに惹かれて詠んだものであろう。
片野氏)マリア様は崇高な御人だから蚤の市などにはお出ましにはならないということか。あるいは、マリア様以上の信仰の対象物が出現するかもしれないので、マリア様はそれを知って蚤の市には行かないのかも。
阪本氏)賑わいの中、一か所だけ静謐の場があった。マリア像がひっそりと置かれている。聖なるものの静との陽気さと対比が決まりすぎている。
竹内氏)他のものが太陽にさらされる中、ベールをかぶったマリア様だけがまるで陽を避けているかのように見えたのであろうか。
姫乃氏)フリーマーケットはお世辞にも美しいものでなく一円までの攻防が繰り広げられる。マリア様からみたら、すこし嘆かわしく除けたかったのかもしれない。
ぼくは刑部氏のコメントに近いかな。偶像は仏像でも田の神像でもそうだが、普通の日本人ならたとえ信者でなくても粗末にできないような気がする。擬人的にマリア様が陽を除けているような表現になってはいるが、この古物を商っている人の神仏に対する畏怖心とでもいうべき心理が詠まれているように思える。
外国だと教会前の広場でも行われるみたいだが。