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親鸞と道元

先日のブログで書いた「親鸞」の著者五木寛之氏と、立松和平氏の対談本「親鸞と道元」を読んだ。立松氏は「道元禅師」で2007年度の泉鏡花賞、08年度親鸞賞を受賞した曹洞宗には造詣の深い修行を実践されていた作家である。

親鸞と道元は一見噛み合うところがないような対照的な開祖であるが、対談の中で宗教の根本のところで二人の思想に被るところが見いだされてくる。

もともとこの二人の対談は期限を決めずに自由対談形式で始まったらしいが、立松和平氏の今年二月の逝去で中途で終わってしまったのを一冊にまとめたものだという。

親鸞も道元も比叡山で勉学と修行に励んだ後、途中で山を下りている。

道元は「人は生まれながらに仏である、仏性を持つ」という天台宗の根本の本覚思想について、修行中に重大な疑義を持ってしまう。全てのものに最初から仏性があるなら、改めて厳しい修行をする必要があるのだろうかという疑義である。

親鸞は、どんなに厳しい修行をしても仏に会えない、煩悩を断ち切ることができない、逆に煩悩に苦しめられる、なぜだろうという疑義をもつ。

結局二人とも山を下りてから、代表的な著書(親鸞の「教行信証」、道元の「正法眼蔵」)をものにする。
二人の共通点を五木氏は、親鸞以前の宗教が国家宗教ないしは集団の信心だったものを、個人の宗教として確立したと指摘している。さらに親鸞の最大の功績は、庶民大衆の中の一人ひとり、個々の個人の「個の自覚」を切り開いたという点だとしている。

確かに阿弥陀如来信仰には「我一人のため」という発想があり、親鸞は個人の自我を確立したといえる。立松氏は、鈴木大拙の言葉を借りて、日本に仏教が根付いたのは、浄土真宗と禅があったからと指摘をしている。

しかし多分に誇張もあるように思う。末法の時代に生まれた鎌倉新仏教によって、それまで救済の対象にすらなっていなかった下々の一般庶民の心の中に仏教が浸透するようになった、と言った方が語弊がないかもしれない。
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by attainmentofall8 | 2010-11-22 23:55 | 読書