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日々の雑感


by さむちゃん
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出家とその弟子

倉田百三著「出家とその弟子」のクライマックス、親鸞聖人の臨終に善鸞が駆け付けたところまで読み進めたところで、ラジオから「宗教の時間」のメロディーが流れてきた。「生死(しょうじ)をみつめる」という題で大阪のあるお寺の住職が話をするという。何というグッドタイミングだろう。

生死とは迷いのこと。生とはいのち、生きていること。死とは命の終わり。生死の迷いを越えるところに仏教の教えがあり、生死解脱(げだつ)の道をさぐることはとりもなおさず煩悩具足の凡夫が必ず仏になるという無量寿の本願を自覚することでもある。

人間として避けられえぬ「死を前提にして生きる」ことを考えるところに、真実性としての仏法の出発点がある。仏教の本来の役目は、生老病死の身である人間に死を自覚させることである。

人生は旅そのものである。つまり帰る世界がある。信心の深浅、長短にかかわらず南無阿弥陀仏と称名するだけで、阿弥陀様が一人残らず掬いとって浄土に帰してくださる。
ざっとこんな話であった。

1917年に倉田百三によって書かれた「出家とその弟子」。この戯曲によって倉田は作家としての名声をほしいままにする。史実と違って人物に多少脚色があるが、全体通して親鸞聖人の教えと人柄を余すところなく伝えている。

常陸の国を旅している途中で吹雪にあい一夜の宿を所望する場面がある。断られるどころか杖でたたかれ追われてしまう。しかしながら親鸞聖人は恨むどころか伴の弟子僧をなだめて、赦してしまう。

弟子の唯円が遊女と恋に落ちてお寺から放逐されそうになった時も、親鸞は老僧を諭して赦しを与える。そして唯円には「お前の恋のまどかなれかしと祈る」というのである。

まさに生ける仏陀としての聖人親鸞の、寛大さと万人に対する開かれた心が描ききれているのである。勘当した息子の善鸞が臨終の枕もとで親鸞聖人から「お前は仏様を信じるか」と問われる。善鸞は「・・・・わかりません。・・・・きめられません」。一瞬苦悶の表情を浮かべた親鸞、やがて柔和な表情に返り「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ・・・善い、調和した世界じゃ」と言うのである。

仏陀の慈悲は、信仰の不足や魂のみじめさを、優しく包んでくれる。慈愛が、相違・不協和音を最も美しい調和へ昇華させたのである。
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by attainmentofall8 | 2010-09-26 23:49 | 読書 | Comments(0)