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日々の雑感


by さむちゃん
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日本語のもどかしさ


4月25日読売新聞朝刊、地球を読むというコラム欄に山折哲雄氏が「人を裁く、償いと赦し菊池寛の洞察」という記事を寄稿している。
一方The Daily Yomiuriでは同じ記事がRepentance must precede leniency(悔悛と懺悔の時間があってこそ赦しがある)となっている。
山折氏の原文は、最近始まった裁判員制度で厳罰化の傾向になっている報道を踏まえ、凶悪犯罪に対して厳罰主義で臨むのか、あるいは否か困難な課題が我々の眼前に立ちはだかるようになっているという趣旨である。

彼は菊池寛の「恩讐の彼方に」と「ある抗議書」という二つの小説と、韓国映画の「シークレット・サンシャイン」をとりあげている。
恩讐の彼方では、旗本の主人を殺した市九郎が懺悔に気持ちから、九州の耶馬溪の大岩壁をくり貫いて道を通そうと悲願を立てる。殺された旗本の息子があだ討ちに現れるが、洞窟の最後の壁が打ち砕かれて光が射し込む場面で息子は一切の怨みから解放される。
ある抗議書は、年配の夫婦を殺した犯人に死刑判決が下されるが、教誨師の言葉で改心しキリスト教に入信して感謝のうちに処刑される。ところが被害者の遺族が犯人の最後を聞いて悲痛な抗議の声をあげるという話である。
韓国映画のほうは、子供を殺された母親が絶望の淵から信仰によって立ち直り赦しの気持ちが出てきて刑務所で犯人と面会する。ところが犯人はすでに神の赦しをえて、神の愛に包まれて感謝の毎日を送っていると言う。その犯人の言葉に驚愕してその母親は発狂する。

この三つには共通の主題が横たわっている。つまり極重の罪を償うには殺された犠牲者の苦悶に匹敵するだけの改悛と懺悔の時間が必要だとする考えである。

山折氏は結局、菊池寛の小説と韓国映画をかりて「凶悪な犯罪を犯した人間が赦されるのは、無限の贖罪行為が積み重ねられたはてにおいて始めて可能になる」ということをいいたいのだろうが、小説と映画の主題はこうだ、背後にはこういったことが横たわっているという表現を使っていて、何を言いたいのかはっきりしないという印象を受ける。英語のタイトルの違いに明白なように日本語は読者に本心を汲み取ってほしい、察してほしいというスタンスの表現形式が自然だからだろう。

英語ではズバリと切り込まないと自分のオピニオンがないような印象を与える。この差が実は国際舞台での日本人英語のもどかしさにつながっているのではなかろうかと思う。
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by attainmentofall8 | 2010-04-26 23:09 | 雑感 | Comments(0)