日欧のコミュニケーションギャップ
2010年 04月 23日
パラドックス
弓術の師範、阿波研造(1880~1939)は「不発の射」「宇宙と射と一体」を説き、「弓教」を教えたことで知られる。ドイツ人の弟子、オイゲン・ヘリゲルによれば、射手である自分自身との対決の本質に関して、阿波は次のように説明する。
弓を射るときには「不動の中心」となることに一切がかかっている。そのとき、術は術のないものになり、弓を射ることは弓と矢とをもって射ないことになり、射ないことは弓も矢もなしに射ることになる。・・・・
的はどうでも構わない。狙うということがいけない。的のことも、中てることもその他どんなことも考えてはいけない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべてなるがままにしておくのです。
これがまた西洋人にはまったく理解できない逆説であるとへリゲルは悲嘆にくれる。中てようと意識することで矢は的に中るのが道理だろうと彼は考える。
日本的感覚から考えれば「なる」的な考えが、「する」的な考えよりすっと心に落ちるような気がする。例えば、「お茶を入れました」より「お茶が入りました」のほうが日本的ではなかろうか。あたかもお茶さんが自分でひとりでに出てきたような錯覚さえする。逆に英語では、I made some coffee for you.がしっくりくるだろう。
パラドックスといえば、歎異抄に出てくる有名な「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という一節がある。善人ですら極楽浄土にいけるのだから、悪人が極楽浄土にいけて当然だという考えで、世間一般の考えとは逆の考えである。悪人が極楽浄土にいけるなら善人がいけるのは当然だと一般には考えるが、これは本願他力の考えに反するのである。
善人は善行をつみ功徳を重ねることで極楽往生しようと考えるが、それでは阿弥陀仏の一切衆生済度の本願の対象から外れることになる。逆に、阿弥陀仏にすがる以外、極楽往生する知恵も知識もない悪人のほうが本願の救済にあずかる対象として最もふさわしいとなる。ゆえに、善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をやとなるわけである。
このパラドックスは、論理的に説明がつくが、弓術のほうは言語を超越したところにある神秘的ともいえる逆説であるので西洋人には理解不能となるのだろう。
by attainmentofall8
| 2010-04-23 23:21
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