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日々の雑感


by さむちゃん
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江戸城無血開城


幕末期に西郷隆盛と勝海舟が直談判して江戸城が無血開城になったと歴史では習った。もちろんそれも間違いではないが、その背景にイギリス・フランスの代理戦争が行われていたというのである。
江戸末期に薩摩藩は生麦事件(1862年)、薩英戦争(1863年)を経験する中でイギリス軍の威力を思い知り、藩独自の富国強兵・殖産興業を進めていった。これに対し幕府側は小栗上野介がフランスの借款で横須賀の海軍工廠の前身になる造船所を作っていた。つまり、イギリスの力を背景にした薩長の討幕派とフランスべったりの幕府側とが対峙していたのである。もちろん英仏はアジア・極東の権益をねらって日本を足場にしようとたくらんでいたわけである。この横須賀工廠を無傷で引き渡すというのが西郷・勝の交渉で一番大事なところだったようだ。

昨年度のNHKの大河ドラマ「篤姫」をみて少なからず篤姫側からの働きかけが効を奏した面があったこともわかった。薩摩から輿入れしている姫が住まう江戸城を焼き払うということは西郷隆盛が官軍を指揮している限りないだろうと読める。一方長州の高杉晋作や桂小五郎も倒幕のために大村益次郎の指導の下イギリスに接近していた。土佐藩の坂本竜馬や中岡慎太郎らの仲介で薩長同盟が結ばれ一気に倒幕の勢いがつくことになる。そういうもろもろの根回しがあった上で幕府側は形勢不利をさとり1868年4月11日の無血開城へとつながるのである。

無血開城後の五稜郭の戦いでは10人のフランス人が榎本武揚を中心とした旧幕府軍とともに最後まで戦って敗れた。これはヨーロッパにおける英仏の力関係そのままであった。当時フランスのナポレオン3世の第2帝政がイギリスとの競争に敗れたからである。結局、明治維新はある意味イギリスの勝利フランスの敗北という構図で捉えられる。その後、日英の関係は日英同盟1902年へとつながっていく。
結局表面的な現象の裏で歴史的に大きなうねりが起こっているということもあるということである。先の核安全サミットで鳩山総理は、普天間の移設問題に関しアメリカ側に協力を要請したと伝えられているが、アメリカに下駄を預けた形になっただけではなかろうか。さらに言えば、米中の覇権争いに日本が間に入って右往左往している図が見えるようだ。五月末までに解決すると確約した以上、アメリカ側の協力が得られない場合は、鳩山政権が倒れるか大きな政界再編につながるのは間違いないだろう。
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by attainmentofall8 | 2010-04-15 16:12 | 歴史 | Comments(0)