こころ
2010年 04月 03日
薬師寺の元管主で今は亡き高田好胤氏の説法のなかに紹介されているこんな短歌がある。
「手を打てばはいと応える鳥は飛び鯉は集まる猿沢の池」
猿沢の池は奈良の興福寺の南にある池。その池のそばで手を打つと連れのものか誰かが「はい」と返事をする。同時に鳥たちは驚いてワーと飛び立っていき、池の鯉は餌をもらえると思って集まってくる。
つまり同じ行為をしても受け取り方がまったく違うということを示唆した歌である。対人関係においても同様で、どんなことを言おうと人それぞれに受け止め方が違うために、時に誤解を生むこともある。同じ人であっても陽気なときと沈んでいるときでは違ってくる。良かれと思って発した言葉が、相手に届かないというのは多分に自他共に心情の織り成す綾によって変わってくるためであろう。
教職という仕事をしているとこのことを本当に実感する。発した言葉が意図したとおりに伝わるためには、ラポールとでも言うべき人間関係の信頼が不可欠になる。相手を観察してタイムリーに発せられた言葉のみが相手に届くと常々心している。
例えば、関西風に「お前あほか!」といわれても普通ならまともに取ることはないが、ある特殊な状況ではまともに受け止めてしまうことは十分にありうることだ。もっと微妙な言い回しでは真意を伝えるのが難しくなってくる。「そんなノートのとり方してはだめだよ」がすっと受け止められる人もいれば、ノートテーキングを前面否定された、あるいは全人格を否定されたととりかねない人だっているかもしれない。この場合に限っては、否定語で言わないで、「こんなノートのとり方のほうがすっきりするよ」といった肯定語でアドバイスすれば誤解される可能性は減らせると思う。
人間の「心」はころころ変わるが故に心というそうだが、心情の無常がある意味人間関係を楽しくしている部分もある。
「手を打てばはいと応える鳥は飛び鯉は集まる猿沢の池」
猿沢の池は奈良の興福寺の南にある池。その池のそばで手を打つと連れのものか誰かが「はい」と返事をする。同時に鳥たちは驚いてワーと飛び立っていき、池の鯉は餌をもらえると思って集まってくる。
つまり同じ行為をしても受け取り方がまったく違うということを示唆した歌である。対人関係においても同様で、どんなことを言おうと人それぞれに受け止め方が違うために、時に誤解を生むこともある。同じ人であっても陽気なときと沈んでいるときでは違ってくる。良かれと思って発した言葉が、相手に届かないというのは多分に自他共に心情の織り成す綾によって変わってくるためであろう。
教職という仕事をしているとこのことを本当に実感する。発した言葉が意図したとおりに伝わるためには、ラポールとでも言うべき人間関係の信頼が不可欠になる。相手を観察してタイムリーに発せられた言葉のみが相手に届くと常々心している。
例えば、関西風に「お前あほか!」といわれても普通ならまともに取ることはないが、ある特殊な状況ではまともに受け止めてしまうことは十分にありうることだ。もっと微妙な言い回しでは真意を伝えるのが難しくなってくる。「そんなノートのとり方してはだめだよ」がすっと受け止められる人もいれば、ノートテーキングを前面否定された、あるいは全人格を否定されたととりかねない人だっているかもしれない。この場合に限っては、否定語で言わないで、「こんなノートのとり方のほうがすっきりするよ」といった肯定語でアドバイスすれば誤解される可能性は減らせると思う。
人間の「心」はころころ変わるが故に心というそうだが、心情の無常がある意味人間関係を楽しくしている部分もある。
by attainmentofall8
| 2010-04-03 16:41
| 雑感
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