日々の雑感


by さむちゃん
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大関靖博句集

唯一福永耕二師系の結社を標榜する「轍(わだち)」
その主宰をされている大関靖博氏の句集 現代俳句文庫72ふらんす堂 をもらった。収録作品は、「点描画」抄、「風速」抄、「轍」抄、「五十年」抄、それぞれ百句ずつ計四〇〇句。

大関氏は、英米文学者で専門は古英詩。市川中学一年で能村登四郎に出会い能村氏の没後「沖」の編集長をされている。(現在、沖は登四郎の三男研三さんが主宰を務めている。)

第一句集の「点描画」の福永耕二の跋文(昭和53年8月)を載せてあるが、師弟愛が感じられてほほえましい。大関氏に福永耕二が薩摩流で飲まそうとするが頑として肯わなかったそうでその芯の強さを誉めている。

句集より印象に残った句を挙げてみる。

空占めて落葉松の芽の点描画
死に会ひし帰路の陸橋しぐるるよ
錦木や福永耕二三回忌
末裔としてしたたかに落花浴ぶ
黄落といへば耕二の忌なりけり
天命を受け容れて山眠りけり
飛んでゐるとき力抜く蜂の脚
初蝶の既に命の重さかな
たましひが身から飛び出す大嚔
トマト一個ほどの心臓吾にあり


大関氏は、あとがきに、「二物衝撃」と「瑣末主義」について長年悩んできたが、ここ五年ほどでやっとある程度の解決をみて心の平安が戻ってきた、そして「二物衝撃」は「万物調和」の世界へと導かれ、「瑣末主義」は「一毛孔の中に一切仏を見たてまつる」への観照へと導かれていくと書いている。句業五十年の氏の句集にもうすこし浸ってみたい気分になった。
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by attainmentofall8 | 2016-08-17 23:19 | 俳句/短歌/川柳

切れ字「の」

外山滋比古著「省略の文学」を、先日ある方から頂いたので再読する機会を得た。高校の時、読んだのを記憶しているが、当時は内容までは十分理解できなかったように思う。それというのも当時は俳句など全く別世界のことと考えていた節があり、字面だけで内容までは読み切れなかったというのが正直なところである。

普通の文章のロジックを放棄する破格的語法をとるのが俳句であり、月並みな散文性を超克するための必然的方法である。リアリズムの立場から俳句を理解しようとすると、この論理の放棄による純粋詩性を逸してしまうと外山は言う。そして次の一句をあげている。

病雁の夜寒に落て旅寝かな 芭蕉
(やむかりの よさむにおちて たびねかな)

通説のように「病雁が夜寒に舞い落ちて旅寝をする」その姿に、旅に病む作者の孤独と哀愁が二重写しにされていると解釈されるが、そうとしても旅寝の主語を病雁とするか作者自身とするかによって、一句の余情は変わってくる。

「て」によって無理やり主格の転換を行って論理を捻じ曲げていることが、「て」のあとの空間が詩的作用を大きくすると考えられる。

この句の主格を一元的に病雁とするか、二元的に病雁と作者と解するかは「て」の切断力による。つまり散文におけるような意味は俳句には存在しない。
俳句が持っている含蓄は、各人によって異なる解釈を許す曖昧さでありそれが余情というものである。

外山は、旅寝の主格だけを指摘しているが、「夜寒に落ちる」の主格も作者ではないかと私は考える。つまり「病雁の」の「の」で切れるという超文法的異変が起きているとみる。一般的には、「の」は連体修飾語をつくる格助詞と考えられるが、日本国語大辞典には間投詞としての用法を挙げてある。文中の文節末にあって、聞き手を意識しての感動を表わす。間投助詞「な」に近いとある。

「花の色は移りにけりな」の「な」に近いわけである。こう考えると私の解釈もあながち間違いではないだろうと思う。
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by attainmentofall8 | 2016-08-11 22:24 | 俳句/短歌/川柳

華文化講演会

「華」短歌会の文化講演会が、鹿児島市民文化ホールであった。
第一部は七人のパネリストによるシンポジウム「短歌の魅力とは?」
第二部は「現代の喪失」、前華短歌会代表 川涯利雄氏の講演。

シンポジウムは、七人の華の同人が、自己紹介の一首、初めの一首、衝撃の一首、好きな一首を個々に話していくという形式であった。内容的にはすばらしいことを話されているのにシンポジウムという形式に則っていないために、パネリスト同士あるいは聴衆から出た質問に答える討議がほとんどなかったのは残念だった。今回、外部から講師を呼ばないで自前で作り上げた毎年恒例の文化講演会という触れ込みであれば、もっと質問や意見がどんどん出る雰囲気になってもよかったのではと思う。


川涯先生の講演は、岡野弘彦の歌を中心に「現代の喪失」について。
冒頭に、

鳥にあり獣にあり他人にあり我にあり命といふは何をはたらく 宮柊二

という歌を紹介。何をしでかすかわからない人間の不可思議さに言及された。我という漢字は、両手に槍となぎなたを持って人間が本来持っている惻隠の情のような情感を守っているとのこと。

辛くしてわが生き得しは彼らより狡猾なりし故にあらじか 岡野弘彦

岡野氏は特攻を志願するも代々続く神社の宮司を継ぐために親の反対で叶わなかった。亡くなった多くの友人に申し訳ないという感情を常に持っている。鎮魂が日本人には足りないと岡野氏はいう。

坂の上の雲あかあかと夕焼けてまたひとり子が殺されにけり 岡野弘彦

現代人が失ってしまったものを、うたびとの善意で世直ししていく必要があるという結びであった。
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by attainmentofall8 | 2016-08-06 23:05 | 俳句/短歌/川柳

ちゃわんむしの歌

鹿児島で有名な歌「ちゃわんむしの歌」は、最近テレビコマーシャルでも使われるようになって県内で知らない人はいないのではないか。
鹿児島弁で歌われるので、鹿児島弁を知らない人には外国語のように聞こえるかもしれない。
先般行われた鹿児島弁フェスティバルでは英語バージョンまで紹介された。

その英語バージョンと日本語の歌詞を3番までじっくり見てみると、これまで理解されてきた歌詞の意味は間違いではないかと思うようになった。

歌詞の1番だけみると、お店かどこかの食器に虫がついていたのを人(お客)からとがめられて、言い訳をしつつ「げんねこっじゃ」と恥じ入っているように理解される。

①うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん ちゃわんなんだ
 日に日に三度も洗るもんせば
 きれいなもんごわんさー
 ちゃわんについた虫じゃろかい
 めごなどけあるく虫じゃろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは


しかしながら2番、3番の歌詞を見ると、そうではないことが分かる。

②うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん 嫁じょなんだ
 日に日に三度もちけんせぇば
 きれいなもんごわんさー
 顔につけたけしょじゃろかい
 化粧についた顔じゃろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは


嫁さんが化粧をして綺麗にしていることを、自慢半分、けなし半分でちゃかしている。

③うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん 息子なんだ
 日に日に六度もくろもんせぇば
 たまげたもんごわんさー
 あたいがちっかたがすんねたろかい
 あてごたちゃわんがこめたろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは


息子が毎日六度も食事をする大飯食らいだということを、やはり自慢げにちゃかしている。

②③から自慢に対する照れが「げんねこっじゃ」ではないか。
とすれば、①も自分の家の食器がきれいに洗われてピカピカなのを、自慢しているのではないだろうか。

誤解の元は、
ちゃわんについた虫じゃろかい
めごなどけあるく虫じゃろかい

の部分だが、
ちゃわんにつく虫じゃっても
 めごなどけあるく虫じゃちゅても
(よいちかんど!)
(いやあ~自慢のしてげんねこっじゃ) と理解するのが自然ではないか。

直接的に自慢するのは照れるので、自虐的にオブラートにくるんで実のところおおいに自慢しているのではある。それが証拠に、「わっはっは」と哄笑している。
①の茶わんは、家全体のきれいさの代名詞にもなっている。
①②③に共通のフレーズ、リフレインを斟酌し、全体を通して考えて初めて作詞者の真意が見えてくるのではないだろうか。
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by attainmentofall8 | 2016-08-05 00:02 | 雑感

雁ヶ腹摺山

現代短歌新聞の8月5日号、吉村睦人氏の添削コーナーコラムに大変興味深い話がある。

ある歌会で「尾根いくつ越えし向うに見えてゐる雁が腹摺り山を越え来ぬ」という歌に対して、下句を「雁が腹摺り尾根を越ゆるが」と直されたという。すると作者が、「雁が腹摺り」は山の名前です、と言ったそうだ。

ポイントは、「がんがはらすりやま」は山の名前だということである。雁が腹を摺るように山を越えて来たととってしまうのが、一般的だろう。このような固有名詞には「」括弧を付けるといいいとアドバイスしている。

ちなみにこの「雁ヶ腹摺山」は、山梨県大月市にあり、標高1874m。大菩薩嶺から続く小金沢連峰の支脈にある山のひとつだという。
誰がつけたか知れないがずいぶん情趣に富んだ山の名前である。雁が渡る遠景があたかも腹を尾根に摺りつけるように見えたのだろう。

括弧を付けなくてはならないようなものは、例えば花を例にとると・・・薔薇なら「伊豆の踊子」、紫陽花「墨田の花火」、チューリップ「紅獅子」、朝顔「団十郎」なんていうのもある。

川の名前である「坂東太郎」「筑紫二郎「四国三郎」も知っている人は知っているだろうが、知らないと、歌に詠まれた場合には全く歯が立たないことになる。
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by attainmentofall8 | 2016-08-03 19:52 | 俳句/短歌/川柳

東郷文弥節人形浄瑠璃

東郷文弥節人形浄瑠璃の公演が昨日(7/31)東郷の公民館ホールであった。
わずか20分ほどの公演にもかかわらず観光バスで観に来ているグループもあり総勢で200人ほどは入っていたように思う。

演目は、源氏烏帽子折初段 卒塔婆引き(そとばびき)
人形遣いは黒子風の服装で、顔を見せる文楽とは違う。男人形はひとりで操り右手のみ可動。女人形は左右の手が可動なので二人で繰る。文楽以前の人形浄瑠璃なので、語り太夫や人形の動きが素朴で単調なのが特徴と案内パンフに書いてある。

卒塔婆引きのあらすじは、簡単に記すとこんな物語である。
藤九郎盛長と渋谷の金王丸は、平治の乱で平家方に敗れ敗走するも、主君源義朝の墓前で再会する。ところが、お互いに卒塔婆を取り合っての大げんかとなる。卒塔婆が折れるとふたりは改心したかのように主君のかたきを討つことを誓い合う。そこに、六波羅の役人に捕まった常盤御前と牛若丸が現れる。ふたりは役人を切り殺し母子二人を救い出し大和に落ちのびる手助けをする。そして源氏ゆかりの兵を集め再興を誓って関東へと下る。

今回の公演のチラシに、南无阿弥陀仏と書かれた卒塔婆があるがこれは間違いであろう。浄土真宗ではまず卒塔婆をあげないし、浄土宗でも卒塔婆に南无阿弥陀仏や南無阿弥陀仏と書くことは絶対にないそうだ。民間の保存会の方々がやっていらっしゃるとはいえ、国重要無形民俗文化財の指定を受けている上に市や教育委員会が後援として関わっているならやはり時代考証を含めてきちんとしたものを作るべきではないかと思うことであった。
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by attainmentofall8 | 2016-08-01 18:57 | 映画/落語/芸能