日々の雑感


by さむちゃん
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カテゴリ:歴史( 23 )

歴史資料館の公開講座に参加して


「モノ」から視る薩摩の対外交流史

  講師は、坊津輝津館の橋口亘氏


薩摩塔という石塔の話で90分の講演が終わった感じがする。1958年に齋藤彦松氏によって発見された石塔だが、当初は坊津特殊塔と呼ばれていたそうで形状や石質から中国福建省のお寺にある石塔に酷似していることが確認された。南さつま市の加世田や金峰町、南九州市の川辺町にも広く分布しており現在までに県内だけで13体発掘されているという。さらには、長崎、佐賀、福岡といった九州西岸部の県からも発見されている。


浙江省の梅園石に岩石の成分が似ているそうだ。塔の下のほうから須弥壇部、塔身部、屋根部、相輪部という基本構成になっている。薩摩塔の特徴は、須弥壇部に高欄がついており塔身部には壷状のくぼみがあり本尊が安置されている。上からは四角形や六角形見える。高さは60㎝ほど。


どういう目的でこのような塔が作られたのかはいまだに謎だそうだ。中国から長崎を経由して鹿児島に持ち込まれたという説を橋口氏はとっているとのこと。


素人考えでは、種子島に伝わった鉄砲でさえ一年もせずに日本人は自力で火縄銃を作れるようになったことを考えると、薩摩塔も重いものであるだけに一基現地から調達したらあとは加工のしやすい凝灰岩系の石を使って自分たちで作っていたのではないかと推察する。訊いてはみなかったが、日本に浙江省の梅園石に似た岩石はでないのか調べてみる必要がありそうだ。


最後のほうで、唐人墓や青磁の話があったが、坊津あたりには中国人だけでなく貿易に携わっていた外国人が多く住んでいた居住区があったそうなので、唐人の墓があることも彼らが使ったであろう青磁が多数発掘されているのもうなづける。


薩摩の硫黄島は硫黄の大産地であるが、薩摩は硫黄の販売で鉄砲伝来以降ますます発展していったものと推測される。先週の講座でも講師の先生(西郷南洲顕彰館学芸員)が指摘されていたが、薩摩藩の資金力は、沖縄を介しての密貿易、サトウキビの専売制、そして硫黄の販売だそうだ。


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by attainmentofall8 | 2016-06-25 20:37 | 歴史

薩摩藩の偽金造り

歴史資料館で、西郷南洲顕彰館の徳永和喜氏の講演があった。


演題は「薩摩藩の討幕資金 偽金造り」



薩摩藩の討幕資金として大きく三つ収入源があった。①奄美の黒糖の専売制による上がり ②琉球口の密貿易(幕府から許可をもらっていたとはいえそれ以上の取引があった)③偽金造り(300万両から500万両ともいわれる)



偽金の根拠となる資料は、偶然にも発見された鋳造局総裁をしていた市耒四郎の日記だそうだ。


計画の発端は島津斉彬公(1809-1858)で、琉球通宝を集めて天保通宝に作り変えメキシコ銀貨を介して二分金を調達しようというものだったらしい。


しかしながら斉彬公は1858年に亡くなるため、久光公に引き継がれる。



斉彬の発想のすごさは、当時琉球を支配していた薩摩藩が琉球口の貿易のために琉球通宝造りを幕府に求めたところである。安田轍蔵に幕許を担当させ、江戸から鋳造の専門家西村道弥を呼び寄せ、加治木の鍋屋で試験的に作らせている。



藩が幕府に許可を申請したのは文久2年(1862)6月16日、そして許可が下りたのが同年8月12日。さらに鋳造所が磯にできたのが12月22日。電光石火の早業である。斉彬公逝去4年後のことである。薩摩藩は幕府許可高をはるかに上回る量を密造する。その額、安田轍蔵によると500万両だったとも。



幕末維新期に、実は薩摩藩以外の藩でも偽金造りは行われていた。加賀藩、会津藩、安芸藩、土佐藩などでも質の悪い金貨が大量に贋造されていた。



討幕は薩摩などの潤沢な資金をもつ藩が中心となって成し遂げられたというのが通説であるが、講演後の質疑応答で、「グラバーを介して外国のお金が討幕資金に使われたということはないですか?」という質問をしたら、正確な回答は得られなかった。坂本龍馬や長州藩などが活躍できた資金はどこから出ていたのかいまだに疑問として残る。









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by attainmentofall8 | 2016-06-19 12:00 | 歴史

歴史資料館訪問

山本実彦関係の資料を多数収蔵する薩摩川内まごころ文学館に、先日友人と資料閲覧の件で相談に行った。きょう、あらためて出かけたところ館長と担当の学芸員に丁寧に対応していただき有り難いことであった。

その足で、大浦兼武関係の資料を探すためにさつま町の宮之城歴史資料センターに出かけた。幸いに大雨のため来館者が一人しかいなくて、館員のかたに丁重に対応していただいた。しかしながらやはり書簡類は申請書類をだして許可の上でなくては閲覧できないということだった。

歴史資料センターは、虎居城址が眼前にひろがり蛇行する川内川が見下ろせる位置に建っている。島津義久・義弘の弟歳久が居城していた城である。歳久が兄義久公より祁答院の地を賜ったのは天正8年(1581)のことである。

天正14年に歳久は秀吉より島津が大友と和議を結ぶことを勧告される。それを受け「秀吉は…匹夫より起り、位人臣の栄を極む。この際六州二百万石の封を受け快く大友氏と和議を結ぶこと、本望なり」と義久以下居並ぶ重臣たちの前で述べるも、却下される。

その後、島津は秀吉の軍門に降るわけだが、歳久は秀吉・義久の和睦寺として有名な泰平寺にも表敬訪問することなく徹底抗戦を主張する。結局義久より討伐軍を送られ自害する悲運の武将である。

急ぎ足の慌しい一日であったが、今後につながる貴重な一日になった。


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by attainmentofall8 | 2016-06-16 15:00 | 歴史

富士登山

先日テレビで、富士山に登った初めての日本人女性「高山たつ」を紹介していた。1832年(天保3年)のことである。当時、富士山は女人禁制だったため男装して、しかも夏の登山シーズンを避け、当時として登れるぎりぎりの10月に行者に紛れて吉田口から登頂している。

たたまた新田次郎の「芙蓉の人」を読んでいて、明治時代に夫とともに富士山頂に2か月ほど滞在した女性がいたということを知った。

野中千代子である。夫の野中至は中央気象台の嘱託を受け、臨時富士山測候所員としてひと冬山頂で越すつもりで登る。妻が秘密裏に後を追って登り結局は、二人で気象観測に従事する。

山頂の零下20~30℃の極寒のなかで体調を壊し下山せざるを得なくなるが、今と違って防寒服や食料品も貧弱な中でよく持ちこたえたものだと驚嘆する。野中千代子は福岡の士族の娘だが、理解ある両親に恵まれていたことも幸いしている。

外国人女性の富士山初登頂は、1867年、英国の駐日公使を務めたハリー・パークスの夫人が登頂した記録があるそうだ。パークスと言えば、薩英戦争後、薩長を支援して明治政府を最初に承認した人物である。

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by attainmentofall8 | 2013-10-25 22:36 | 歴史

ごろつき薩摩?

10月18日付の南日本新聞の南風録に、「ごろつき薩摩」という言葉が紹介されている。敵意に満ちた言葉だけに、誰の発言かと読み進めると、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の弟昭武が明治二年の日記に書きつけているそうだ。ヨーロッパ留学中の昭武が、兄の名代で、江戸幕府が初出展した1867年(慶応3年)のパリ国際博覧会に出席した折、一独立国家のごとくふるまう薩摩藩を苦々しく思ったのが伏線になっているとある。

万博のあった1867年は、明治維新の前年で慶応3年。激動の真っただ中の時代である。薩摩藩は徳川幕府とは別に独自に出展。日本初の勲章を作ってフランス高官に授与してもいる。まさに一独立国家のごときふるまいで、徳川方が苦々しく思うのもうなずける。

1862年の生麦事件、そして翌年の薩英戦争をへて薩摩藩は海外の脅威をまざまざと実感する。また江戸幕府の瓦解を確信する。先手を打つ形で、1865年3月には薩摩スチューデンツと呼ばれる若者19名あまりを密航覚悟でイギリスに留学させている。

慶喜が第15代将軍に就いたのが1866年の夏、暮れに孝明天皇が崩御。翌年1867年10月明治天皇は大政奉還を勅許、12月には王政復古の大号令が発せられる。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗退して1868年3月西郷隆盛・勝海舟の会談を経て、4月11日には江戸城が無血開城する。

江戸幕府の弱体化と海外勢力の進出など情勢の変化を察知していち早く討幕勢力を結集していった薩摩藩を、将軍の弟がよく思うはずがない。まして徳川幕府がなくなった後の明治2年、ヨーロッパからの帰国途上での日記への書き込みである。公家のボンボンからみれば野武士のごとき薩摩武士は「ごろつき」に見えたのだろう。ただ、西郷の恩情や篤姫の嘆願などで徳川家が存続することになったことを考えると感謝されこそすれ、敵意むき出しの「ごろつき」はなかったのではと思う。

このコラム欄から考えたことは、維新後の薩摩が依然として一独立国家のおもむきで存在していたのではないか、そしてそれがために西郷、大久保は悩み西南戦争へとつながっていったのではないかということである。

廃仏毀釈、版籍奉還(1869)、廃藩置県(1871)と新政府は着々と地固めをしていく。ところが西郷は1873年下野、藩主忠義の父久光は、新政府内で顧問、左大臣と重責をまかされるも1876年下野して鹿児島にもどっている。軍事訓練機関というべき私学校が県下に136校の分校をもって明治新政府ににらみを利かせていたわけである。

一方、佐賀の乱から始まり、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と新政府へのクーデターともいうべき乱が勃発するなかで、私学校も不平士族のマグマを一触即発の状況で抱えていた。明治維新の功労藩である薩摩が新政府に同調しないばかりか、いつ爆発するかわからない不平士族をかかえていたのでは明治政府は安定した政治をやれない。そこで考えたのが、西郷と大久保の超腹芸。不平士族もろともに自滅し言論の社会に変えるというすご技。これが僕の長年の空想論である。

西南戦争を境に実際ぴたりと武力による反乱は止み、以後国民は言論による政治を行っていくことになる。西郷なくして明治維新は完結しえなかったし、近代国家への歩みはまた違っていたろうと考える。


薩摩スチューデンツの像の前で読書をするアメリカ人女性
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by attainmentofall8 | 2013-10-19 20:25 | 歴史

慈眼寺

薩摩の三名刹と言えば、鹿児島の慈眼寺(じげんじ)、坊津の一乗院、志布志の宝満寺。しかしながら明治二年の廃仏毀釈で3ケ寺とも消失している。欠けた仏像などが、往時を偲ぶよすがになっている。薩摩の廃仏毀釈の激しさを物語っている。

慈眼寺は推古天皇の御代(592~628)に、百済の名僧日羅(にちら)によって開基されたと伝えられている。当初、天台宗の寺で後に臨済宗になる。島津久豊(8代)によって再興され、15代貴久が寺を造営する。そして福昌寺(島津家の菩提寺、曹洞宗)の末寺となる。以来島津家の寺として栄える。
慈眼寺という名前は、家久が自分の号をとってつけたのが由来と言われる。
明治の廃仏毀釈で寺は跡形もなくなるが、仁王像に当時の名残を留めている

慈眼寺跡は現在、稲荷大明神社があり、近くには公園やそうめん流しなどのレストランが並び観光地化している。3Kmほどの遊歩道ができていて川に沿って散策を楽しめる。近くには「ふるさと歴史考古館」がある。家久が賞揚しただけあってすばらしい自然環境である。巨大な玉石が川にごろごろ横たわり、岩肌がむき出しになった遊歩道、また雑木林や竹林の冷涼感。いつまでもマイナスイオンを感じていたくなる場所である。
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by attainmentofall8 | 2013-10-02 23:31 | 歴史

濱里氏の祖父と西郷さん

前回紹介した講演集「遠い航跡」に、著者の濱里忠宣氏と西郷隆盛との少なからぬ縁が書かれている。

濱里氏の母方の祖父は16歳で西南戦争に従軍する。戦局が悪化しつつある日、西郷さんに呼ばれて「村岡、お前は鹿児島に帰れ」「命を粗末にするな、生きて帰って世のため人のために尽くせ…」と言われ、肌着と50銭銀貨をもらわれたそうだ。結局生きて帰られ濱里氏の母親が生まれるのであるから、氏にとって西郷さんは命の恩人・運命の人と言えると書いている。

太平洋戦争中にも、死に急ぐ若者に「生きて戦後の日本の再建に尽力しろ」と諭す日本人がいたことは、我が恩師新保昇一先生の小説にも書かれている。ところが、そのはるか以前に西郷隆盛は近代国家を託すべき人材をちゃんと峻別して生かしているのである。毀誉褒貶いろいろあるのが西郷さんである。しかし実弟やいとこを東京から呼びもどしていない事実、また上記のような逸話から考えるに、不平士族の猛者たちと心中することで武力から言論の社会への移行を意図的に加速化させたのではと確信めいた考えにシフトしてきた。ある意味大それたことを茫洋としてやり遂げたところに西郷さんの非凡さがあるように思う。

この講演集は、濱里氏の豊富な知識や知見と、学校現場や行政に長年身を置かれた経験などを余すところなく記した珠玉の一冊である。久々に読み応えのある本に出会えた。

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by attainmentofall8 | 2013-05-21 23:45 | 歴史

頼山陽公園(阿久根)

阿久根市の牛ノ浜に、頼山陽公園という公園がある。
文政元年九月(1818年9月)に、頼山陽が西遊の途次に薩摩路に入り、阿久根の牛ノ浜付近の風景に感動して長期滞在したそうだ。その間に作った詩の詩碑が置かれている公園である。たまたま、親戚の墓参りに行った際に気付いたので立ち寄ってみた。
山陽詩碑と山陽詩碑建立の辞の二つの石碑がある。

以前このブログでも紹介した「頼山陽」。江戸時代の儒学者、歴史家、漢詩人、書家である。自作の漢詩と書を売って旅費代わりにし、日本各地を漫遊したことで有名である。阿久根に来ていたとは知らなかった。南さつま市に、「伊能忠敬絶賛の地」があるが、阿久根の当地は、頼山陽絶賛の地ということになろうか。確かに高台から海をながめた風景は絶景である。
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by attainmentofall8 | 2013-05-15 21:24 | 歴史

西郷vs大久保

桐野作人氏の話を聴く機会があった。南日本新聞の連載記事「さつま人国誌」を書いている人である。「西郷隆盛と大久保利通=明治国家をめぐる二つの道」という演題で90分の講演であった。

桐野と言えば、桐野利秋をイメージするだろうが全く関係ないというコメントから始まった。利秋は中村半次郎(人斬り半次郎)ともいわれ、西南戦争のきっかけとなった火薬庫襲撃事件や私学校生を先導し西南戦争が始まるきっかけを作った人物と一般には思われているので、まずそう言われたのだろう。

西郷の「強兵」と大久保の「富国」という対立で説明された。征韓論争は明治国家の理念や建設の方法論をめぐっての対立ということだが、この対立は不可避で和解は不可能だったと。

未だ疑問が解けないのは、実弟西郷従道、黒田清隆らの側近をおいて下野する西郷が大久保を含めた彼らに何を託し、自分の使命をどうとらえていたのかということである。
市来四郎の「丁丑騒乱記」によれば、「今後皇室の大事、或いは外難あるに臨んでは斃れんの決心なりと語れり」とあるが信憑性は定かでない。心の内を想像する方が歴史を楽しめる。

急激な変革で既得権を持つ階級の不平不満、士族の救済策も頓挫し財政も逼迫している状況など考え合わせると、かなりの不満士族が存在していたわけである。実際、佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、萩の乱など立て続けに内乱が勃発している。そして最大の火薬庫薩摩武士。レミングの集団自殺のような蜂起を期待したのか。西郷さんは日本の近代化という大義名分のためにそれに殉じたのか。文書に残っていない人間的な側面にスポットを当てた話の方がロマンがあってよかったのだが…。

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by attainmentofall8 | 2013-01-25 15:17 | 歴史

利休の侘び

歴史資料館で「利休の教え~侘び寂びの世界~」という5回連続講座が始まった。講師は小ケ倉靖郎氏。
一回目の今日は、侘びの理念について話を聞いた。

千利休(1522~1591)と言えば、千家流茶道の開祖として知られる。織田信長や豊臣秀吉の御茶頭として仕え、天下一の宗匠と評される。しかしながら豊臣秀吉の怒りを買い自刃して果てる。ただ利休の侘び茶は現在も脈々と受け継がれている。

利休の考える侘びは、ほどの良さ、贅沢の戒め、労力を惜しまないことの3点に集約される。仏教の中庸の考えからきているのだろう。禅宗と関係の深い茶道であれば、日常の生活そのものが作務という考えになるのも不思議なことではない。

利休の弟子の南坊宗啓が利休の語録を記し、立花実山によって編集されたといわれる「南坊録(南方録)」に、「侘び茶の湯の心」についてエピソードを交えて書かれている。利休の師匠の武野紹鴎(じょうおう)は藤原定家の歌
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮  の中にこそ侘び茶の心があると言った。

ところが利休はさらに藤原家隆の歌
花をのみ待つらん人に 山里の雪間の草の春を見せばや を加えて得心すべしと、弟子たちに言ったそうだ。春の花をめでる伝統的な美意識に対して、家隆は雪間の草から春の命を実感するという美意識を歌っている。つまり心で感じ、心で見ようとする美意識のほうを重んじている。
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帰りがけにもらってきた茶花、秋海棠、椿、萩
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by attainmentofall8 | 2012-09-21 23:35 | 歴史