日々の雑感


by さむちゃん
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カテゴリ:雑感( 300 )

ちゃわんむしの歌

鹿児島で有名な歌「ちゃわんむしの歌」は、最近テレビコマーシャルでも使われるようになって県内で知らない人はいないのではないか。
鹿児島弁で歌われるので、鹿児島弁を知らない人には外国語のように聞こえるかもしれない。
先般行われた鹿児島弁フェスティバルでは英語バージョンまで紹介された。

その英語バージョンと日本語の歌詞を3番までじっくり見てみると、これまで理解されてきた歌詞の意味は間違いではないかと思うようになった。

歌詞の1番だけみると、お店かどこかの食器に虫がついていたのを人(お客)からとがめられて、言い訳をしつつ「げんねこっじゃ」と恥じ入っているように理解される。

①うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん ちゃわんなんだ
 日に日に三度も洗るもんせば
 きれいなもんごわんさー
 ちゃわんについた虫じゃろかい
 めごなどけあるく虫じゃろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは


しかしながら2番、3番の歌詞を見ると、そうではないことが分かる。

②うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん 嫁じょなんだ
 日に日に三度もちけんせぇば
 きれいなもんごわんさー
 顔につけたけしょじゃろかい
 化粧についた顔じゃろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは


嫁さんが化粧をして綺麗にしていることを、自慢半分、けなし半分でちゃかしている。

③うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん 息子なんだ
 日に日に六度もくろもんせぇば
 たまげたもんごわんさー
 あたいがちっかたがすんねたろかい
 あてごたちゃわんがこめたろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは


息子が毎日六度も食事をする大飯食らいだということを、やはり自慢げにちゃかしている。

②③から自慢に対する照れが「げんねこっじゃ」ではないか。
とすれば、①も自分の家の食器がきれいに洗われてピカピカなのを、自慢しているのではないだろうか。

誤解の元は、
ちゃわんについた虫じゃろかい
めごなどけあるく虫じゃろかい

の部分だが、
ちゃわんにつく虫じゃっても
 めごなどけあるく虫じゃちゅても
(よいちかんど!)
(いやあ~自慢のしてげんねこっじゃ) と理解するのが自然ではないか。

直接的に自慢するのは照れるので、自虐的にオブラートにくるんで実のところおおいに自慢しているのではある。それが証拠に、「わっはっは」と哄笑している。
①の茶わんは、家全体のきれいさの代名詞にもなっている。
①②③に共通のフレーズ、リフレインを斟酌し、全体を通して考えて初めて作詞者の真意が見えてくるのではないだろうか。
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by attainmentofall8 | 2016-08-05 00:02 | 雑感

出家

NHKEテレ「こころの時代」(213時~)に、花園大学の佐々木閑教授が出演していた。たまたまつけたテレビで再放送の番組だった。「わたしの『出家』生活」というテーマで、氏自身の出家的生活を交えて話をされた。


厳密な意味での「出家」は、「俗世を離れ剃髪し仏法修行の道に入ること」となろうが、佐々木氏の勧める出家は日常生活でも普通に実践できることらしい。


「自分の好きなことをずっとやり続けられる環境に身を置くこと」が氏のいう出家だそうだ。


たとえば、科学の世界をみると、大学などでビッグバンの研究をしている人は好きな研究に没頭している。宇宙創成の研究などすぐに役立つことでもないが、一途な研究姿勢をみて応援してあげたいという気持ちになったり、将来役立つであろうという期待感からお金が集まる。多くは税金がお布施という形で使われている。


家族を持つ人には大変なことに思えるが、例えば自宅で研究を毎日2-3時間せざるを得ないとすれば、それは家族からその時間を布施でもらっているという考えになるらしい。当然、そこには感謝がなければならないし、それをエネルギーにしなくてはならないわけである。


スポーツにおいても、例えば野球、イチローみたいな求道者タイプなら喜んで大金を出してでも球場に足を運ぶだろう。お布施が活きると考えるからである。


一時間の番組を、ひと言で要約するのは容易ではないが、出家的生活という新しい考えと布施について考えさせられた番組であった。


牧水や山頭火がすぐに頭に浮かんだが、氏のいう出家的生活をおくり後世に名前を残した人物といえるだろう。


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by attainmentofall8 | 2016-07-02 23:32 | 雑感

銃乱射事件

米フロリダ州のオーランドで起きた銃乱射事件、また起きたかという感じであるが今回の事件は史上最悪の死者50人、負傷者52人である。事件が起きるたびに、銃規制が各方面から言われるが、我々日本人の感覚とは全く違う論理で銃の取り締まりに反対が出ているようだ。

A resounding 'yes' will be the answer of theNational Rifle Association, one of the most powerful lobbies, dead set againstany fettering of the US citizens' right to purchase and possess what firearmsthey please. It has long been its unabashed slogan that 'Guns don't killpeople, people kill people'!

In the wake of one such equally horrendousmassacre (the Sandy Hook Elementary School, New Town, Connecticut) some yearsago, the NRA had the temerity to say that if only all the teachers and pupilshad carried arms, the tragedy would not have happened.

Another lobbying group, the Gun Owners ofAmerica, is reported to have declared that the members of the US Congress whovoted to ban guns from schools had 'blood on their hands', adding, 'They arethe ones who made it illegal to defend oneself with a gun in a school, whenthat is the only effective way of resisting a gunman.'

アメリカ最大の圧力団体の一つであるNRA(全米ライフル協会)は、「銃が人を殺めるのではなく、人が人を殺めるのです」を金科玉条の標語にしている。

コネチカット州のニュータウンの小学校で起きた銃乱射事件(26人の子どもが死亡)の時でさえ、「先生や生徒が全員銃を所持していたらこんな悲劇は起きなかっただろう」と言い放ったという。

またもうひとつの圧力団体である米国銃所有者協会は、「学校での銃所持に反対するアメリカ議会の議員たちにこそ責任がある。学校で、銃を使って身を守るのが銃襲撃者から身を守る唯一の方法であるにもかかわらず議員たちはそれを違法とする人たちである。」と声明を出したと伝えられている。

銃所持を独立宣言や憲法で保障された権利だとする考え方から抜け出せない以上、アメリカから今回のような銃乱射事件で大量殺りくはなくならないだろうと思う。

レーガン大統領の報道官だったジェームズ・ブレイディーが暗殺未遂事件の巻き添えで負傷し、のちにブレイディ―法と言われる銃規制法を作るのに貢献するが10年の時限立法だったために2004年に失効している。またアソールト・
ウエパン法( federal assault weapons ban)によって自動小銃のような大量殺戮に使われる可能性のある銃の規制もなされたがこれも2004年に失効している。

このような背景があるアメリカにおいて、就任早々核廃絶に向けた宣言をしたオバマ大統領がノーベル賞をもらって意欲的に取り組もうとしたが理想と現実のギャップに挫折したのもうなずける。国内の銃規制もままならない国が、核廃絶が成し遂げられるはずはないと悲観的な見方をしてしまう。


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by attainmentofall8 | 2016-06-14 21:50 | 雑感

朗読教材

『文語教科書 明治・大正 文語五十撰』を使った公民館講座の朗読講座に参加した。

井上哲次郎の敕語衍義(ちょくごえんぎ)をきょうは扱った。敕語衍義とは、教育勅語の真意を説き明かし押し広めるという意味である。先般テレビで放映した司馬遼太郎特集での司馬の言葉とかぶるところがあり、日本が戦争に突入して自滅の道を歩むようになった一因が、教育勅語にもあったのでないかと妙に合点がいく内容である。

井上哲次郎(1856~1944)は、東京帝国大学の教授で国家主義を唱導し内村鑑三の不敬事件にかかわった人物として知られている。この不敬事件は、教育勅語が発布された1890年の翌年、第一高等中学校の講堂で挙行された教育勅語奉読式において、内村鑑三が天皇宸筆の御名に対して敬礼をおこなわなかったという事件である。同僚教師や生徒によって非難されそれが社会問題化してしまう。これに対して井上は、内村だけでなくキリスト教を国体に反するものとして徹底攻撃し、国家主義を鼓吹していく。

教育勅語に、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ…」という文言がある。これを井上は「殊に国の安危休戚に関することあらば、欣然一命をも擲ちて公衆の為に図るところなかるべからず、是れを真正の義勇とす」と敷衍している。さらには、利他心、愛国心、などの徳目にも言及している。そしてとどめに、次のような文章で滅私奉公を推奨している。

「…国家の急に当りて、逡巡狐疑するものは、必ず世の笑罵を免るること能わず。半生の栄名も一朝にして汚名と変じ、一切の願望は泡の如くに消滅し、はじめて一死の生に勝ることを知るに至らん。」

教育勅語が明治23年発布されてから、小学校では内外問わず勅語を暗記させられたわけだが、小学生の精神形成に多大な影響を与えたことは想像に難くない。学芸会などの学校行事を通じて勅語精神の刷り込みは増幅していったのであろう。勅語にはたしかに人間としての徳目が書かれてあり全否定するものではないが、日本人個々人が確かな「個」を作り上げていく上で阻害要因になったことも否定しがたい事実であろう。

司馬遼太郎は生前、「日本が明治近代国家を打ち立てるのに大きな働きをしたのは、日本人の「公」のために尽くす精神であり、また「名こそ惜しけれ」という常に自己を律することができた点である」というような内容の話をした。

古市公威(こうい)の例をあげて、古市は仏留学中に「私が一日休めば日本は一日遅れるのです」と言ったという逸話を紹介している。江戸末期から明治にかけての人々のすさまじさが垣間見えるようだ。


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by attainmentofall8 | 2016-06-08 23:01 | 雑感

法話を聴いて

先日ある高名なお坊さんの話を聞く機会があった。

「恩」とは、大きな敷物の上に大の字に寝ていて、気持ちよく目覚めた時の心を表している。この心は結果であるが、原因として敷物がある。それをお蔭さまと感じ取れる感性(感受性)を、この字は表しているのだそうだ。 白川静の字訓で確認していないが、法話なのでありがたくそう信じたい。

日々の生活の中で、この「ご恩」という言葉があまり聞かれなくなった。これは、一人ひとりの心の中にそのようなことを思い、感じる気持ちが無くなってきているのではないか。耳にしなくなった言葉を拾えば、心の変化、社会の変化をみることができる。

例えば、年齢×365×3という数字を考えた時、食事や水、米粒ひとつに対しても、恵まれて戴いて生かされているという「命の因」として響いて、感じ取れる気持ちが生まれれば、言葉遣いや生き方そのものが変わってくる。

子どもへの接し方にしても、小さい子供であればあるほど全身で聴いて見て感じ取っているだけに、心を込めた言葉遣いが必要である。お天道様が見ていらっしゃる、なんなんさんが見ておられる、まんまんちゃんがみておるで、など表現は違っても、人間の眼だけが見ているのではなく人を越えた存在が見ているというその緊張感が子どもの心に植え付けられえる。いじめ問題にしても、大人社会の反映でもあるのだが、このような言葉が心にあるかないかで一生が変わってくる。

要するに、言葉に宿る霊力、言霊の存在を意識化することと、人間を超越した存在があることをイメージできる感性とそれに対する感謝の気持ちを持たなければならないということであろうと理解した。

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by attainmentofall8 | 2014-03-10 19:00 | 雑感

冬ざれ

冬ざれという言葉がある。木々が裸木となり荒涼としてうら寂しい情景やその季節のことである。こういう景を目にすると、今年のあの暑かった夏のことなど、体感としても思い出すことができなくなる。師走は、季節の巡りを強く感じさせられる月である。
正月を待ち遠しく思ったのは昔のことで、街路樹にイルミネーションが施されジングルベルの音が流れてくると、子ども達はクリスマスを待ち遠しく思うだろう。そしてプレゼントのことで気もそぞろになる。
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by attainmentofall8 | 2013-12-04 17:02 | 雑感

日本縦断

日本縦断走り旅をしている一行に出会った。北海道の宗谷岬?からスタートしているらしい。年配の方たちだから定年後の時間を使って全国を走り回っているのだろう。立ち話をしたら薩摩街道をたどって来たということだった。縦断するのに何日かかるのか知らないが面白い試みだと思う。日本横断は若い頃、後楽園から寺泊まで徒歩で6泊7日かかって達成したことがある。時間があれば縦断もチャレンジしたい。
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by attainmentofall8 | 2013-11-15 23:58 | 雑感

信玄公の銅像

甲府に向かう車窓から葡萄畑が見える。とくに勝沼ぶどう郷駅のあたりにくると、山の斜面に人家と葡萄畑が混在して素晴らしい景観を呈している。

日本有数のワイナリーの郷だけのことはある。美味しいぶどう酒が飲めることを期待しながら甲府に向かった。石和温泉や湯村温泉も近くにあるようだ。ちょっと足を伸ばせば昇仙峡にも行ける。今回は、視察旅行なのでそんな余裕はないが、またあらためて来てみたいと思う魅力あるところだ。

甲府駅の南口右手に、大きな銅像がある。武田信玄公の像である。ちょっと怖そうな顔をしているが、戦国武将の顔ともいえる。薩摩人が西郷さんを敬慕するのと同じように、甲斐の人たちも、信玄公をきっとそう思っているのだろう。
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by attainmentofall8 | 2013-10-30 00:55 | 雑感

大きな月

土曜日が満月だったので今日の月は「立待月」。10時ごろ山際にかかっている月があまりに大きく美しく見えるので写真におさめてみた。ところが写真を見てみると普通の月の大きさにしか写っていない。あれぇ~目の錯覚だったのか…。調べてみると、

大きく見える理由には ①目の錯覚
②月は地球を楕円軌道で周っているので、遠いときと近いときがある

Ⅰ.目の錯覚
空(大気圏)は、真上は近くて、水平方向は遠く見えるので、同じ大きさの月は低いところに見えるときに大きく見え、高いところにあるときは小さく見える。

Ⅱ.月は遠いときと近いときがある
月の軌道は楕円形だから。
平均半径 384,400 km
近いとき 350,000 km
遠いとき 408,000 km
近い時と遠い時では、58000kmも違うことになる。

中村汀女の句に、「外にも出よ触るるばかりに春の月」があるが、汀女も手に触れるような大きな月を見て感動したのだろう。
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by attainmentofall8 | 2013-10-21 23:59 | 雑感

案山子&柿

最近よく見かける道路沿線に陳列された案山子作品。町おこし目的やお年寄りの手慰みの作品群だろうが、ドライバーにとってはドキッとさせられるだけ(笑)
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庭の熟柿。渋柿だがこのじゅくしがきは美味しい。
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by attainmentofall8 | 2013-10-04 15:39 | 雑感