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日々の雑感


by さむちゃん
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水の蝶

『水の蝶』を読んで

昨年12月に上梓された「『水の蝶』 高岡修著 ジャプラン」を読ませてもらった。

まず感じたのは、高岡はタナトスの俳人、死者に寄り添い鬼哭にも共感できる俳人・詩人ではないかということであった。私の勝手な思い込みによる読みかもしれない。しかし、2013年から15年までの4年分の151句には連続性がなさそうにみえて深層には高岡の通底するタナトスを感じざるを得ない。

わずか151句の句集中に「死」ないしその熟語を含む句が18句、死を暗示する句が14句。「殺」が6句。これだけで実に全体の4分の1を占める。次に「顔」「鏡」の句が11句。「空蝉」「闇」「虚無」13句。「蝶」「始祖鳥」「転生」8句。大雑把にキーワードを挙げてつないでみたが、まさにこの世とあの世を往還する輪廻転生的な異界を言葉で見ている人と言える。

タナトスとエロスはフロイトの用語である。生の本能であるエロスに対して、不変性を有する無機物に帰そうとする死の欲動がタナトスである。文芸はこのエロスとタナトスを詠むものといっても過言ではないかもしれない。「俳句とは強靭なる詩である。単一とは主観の浄化である。」という吉岡禅寺洞の言葉を掲げる形象俳句にとってはなおさらであろう。

『水の蝶』中の、「殺(意)」「死」「闇」が使われた句から、強力なエロスのエネルギーの裏返しでもあるタナトスが隠喩・換喩などを駆使して横溢していることに気付く。高岡をタナトスの俳人と形容するのもあながち外れていないのではないか。

ジャン・コクトーの映画「オルフェ」に、死の女王が鏡をすり抜けてこの世とあの世を行ったり来たりする場面がある。「鏡」が「生」と「死」の敷居を暗示する言葉と解することができる。

「空蝉」は死後の抜け殻、「棺」は死を体験した人の空虚な闇の世界を表出している。死を体験するのはむしろそれを見る人、すなわち供儀する人とそれを見ている人である。「黄泉」という異界との交信・対話、転生の隠喩として「虹」「蝶」や「始祖鳥」が使われている。

春の川子を殺したるごと光る

水すまし水に殺意のひかり満ち

情死へとまた歩きゆく櫨紅葉

死すべきや胸の沖より津波くる

八月は死者たちの月照り翳る

水底の神輿をかつぐ死者の声

月光の鼓動がつつむ木の殺意

愛する人を亡くした悲しみ・慟哭。あるいは戦死者、原爆死者、東日本大震災の津波被害者などへの共感と鎮魂。高岡は、「死」が我が子であってみれば、己が殺したるごとき無力さ・責任を感じながら、あの世とこの世を自在に往還している。そして死者に共感するがゆえにわれを「殺す」ことすら厭わない。「情死」に断腸の思いが込められている。情死は本来相愛の男女が一緒に死ぬことだが、高岡の文脈での情死は、男女に限らず親子や共感するすべての人に対して使われる。その喪失感の強さから生まれる後追い心中的感情を情死という言葉に含ませていると思われる。和泉式部の歌に「ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」とある。まさに死者の鎮魂のためにわが魂が幽体離脱した状態であり、蛍の乱舞は死者のメタファーである蛍との語らいをいうのではないだろうか。佐佐木信綱は「願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや」と歌っている。春風に乗った魂が遠く離れた人の所に慰めにいくのも「あくがれ」の心情である。高岡の句は、無念さの中に死んでいった魂に共感する命を詠んでいるともとれ、死者と交信を交わす中でみた幻視を言葉で紡いでいるようにも思える。

羽化するは情死すること螢沢

天涯に空蝉の眼の吹き溜る

数匹は黄泉より来たる夕ぼたる

天涯を出てゆく鶴の一羽あり

吊り鏡うしろに百の顏を吊り

鏡屋の千の鏡に照らされる

始祖鳥の眼を買いにゆく日日草

寺山修司は幼くして父を亡くし、母とも離れて暮らす不遇な少年時代を過ごす。父への恋慕の情からたびたび幻視をみる。修司の俳句に「父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し」というのがある。高岡の場合、化身は螢、鶴、蝶、始祖鳥なのだろう。鏡は異界への通過門のような働きをしていると考えられる。「眼」は「芽」に通じ死者の安らかな成仏を日々願っているような気がする。

転生へ急ぐ途中の鬼あざみ

波がしら幾億の蝶翔びたたせ

死者の胸の春愁を翔つ水の蝶

麦の秋かく眩ゆきか転生は

沖に湧く手毬唄なら毬をつく

転生というのはとりもなおさず化身でありこの世との折り合いをすませた霊があの世に向かって眩き光を放ちながらフェードアウトしていくようなイメージだろうか。死者はこの世の無念を晴らし波がしらの蝶のごとく消えていくのであろう。この世の人ももはや死してあの世との往還を願うこともなければ、あの世への情死の願望もようやく断ち切れる。転生の途中の死者の歌う歌が手毬唄なら「手毬は転げてどこへゆく」をしかと見とどけてあげたいと思うようになる。現実に還ったこの世の人は「毬をつく」という最大級のシンパシーで死者を見送っていると解したい。詩集の締めの一句は、死者への感情移入からのコンパッションであり慰霊であり鎮魂であり高岡の俳句姿勢そのものであるように思う。


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by attainmentofall8 | 2016-06-07 23:21 | 俳句/短歌/川柳 | Comments(0)