日暮長者屋敷跡
2013年 07月 12日
当ブログで以前紹介した日暮長者伝説。薩摩川内が唯一舞台になっている謡曲の曲目や能の演目「鳥追舟」のもとになった悲話である。川内川の支流平佐川の河口に母合橋という橋がある。その橋のたもとに石像や石碑がある。
教育委員会が建てた石碑には次のように書かれている。
母合橋
昔、ここは「母逢いの渡し」と呼ばれ、この地にまつわる伝説が残っています。室町時代の謡曲「鳥追舟」であり、江戸時代の三国名勝図会の「日暮の里」であります。
三国名勝図会には「宮里村に母逢川あり其の渡口を母逢の渡と号す、又二人の子、母を慕ひて此の川涯に至り、岸を隔て母に見え、甚だ悲嘆せるよりの名なりとぞ・・・」とあり、有名な日暮長者伝説の地であります。
向田町日暮岡に日暮長左衛門という長者が住んでいました。
この長者には、今の宮里町清水生まれの柳御前という妻と、娘お北と息子花若丸の二人の姉弟がいて幸福な日々を送っていました。
長者の家臣左近尉は悪巧みをして柳御前と離婚させ、左近尉と親しいお熊の方と結婚させました。その後長者は土地問題で京に行き十年余の歳月が流れ、その間左近尉とお熊は二人の姉弟にきつく命令し田に集る雀の群れを追わせていました。
来る日も来る日も、雨の日も風の日も鳥追舟に乗って雀を追わなければなりませんでした。あまりのつらさに思いだすのは母柳御前のこと、母も我が子二人が恋しくてたまらず、三人は人目を忍んでは母逢の渡しで川をはさんでいつもこの川岸に出て逢って共に涙を流していたという悲話の秘められた地であります。
現在の橋は、平成元年に架けられた近代的な橋でその名称も「母合橋」と記され、橋の親柱には伝説を物語る母と子が対面する姿、欄干には雀を追う姉弟の姿等がデザインされ当時を忍ばせています。
平成三年三月 川内市教育委員会
その日暮長者が住んでいた屋敷跡が、川内小学校の裏手の高台にある。鳥居をくぐると小学校の施設と思われる遊具や、土俵まである。巨大な招魂碑も建てられている。そのさらに上の方に、屋敷跡と思われるような、石垣積みの一角がある。写真のとおり、現況は雑木林であるが、謡曲や能の「鳥追舟」を生んだ日暮長者の屋敷ということで感慨深いものがある。
教育委員会が建てた石碑には次のように書かれている。
母合橋
昔、ここは「母逢いの渡し」と呼ばれ、この地にまつわる伝説が残っています。室町時代の謡曲「鳥追舟」であり、江戸時代の三国名勝図会の「日暮の里」であります。
三国名勝図会には「宮里村に母逢川あり其の渡口を母逢の渡と号す、又二人の子、母を慕ひて此の川涯に至り、岸を隔て母に見え、甚だ悲嘆せるよりの名なりとぞ・・・」とあり、有名な日暮長者伝説の地であります。
向田町日暮岡に日暮長左衛門という長者が住んでいました。
この長者には、今の宮里町清水生まれの柳御前という妻と、娘お北と息子花若丸の二人の姉弟がいて幸福な日々を送っていました。
長者の家臣左近尉は悪巧みをして柳御前と離婚させ、左近尉と親しいお熊の方と結婚させました。その後長者は土地問題で京に行き十年余の歳月が流れ、その間左近尉とお熊は二人の姉弟にきつく命令し田に集る雀の群れを追わせていました。
来る日も来る日も、雨の日も風の日も鳥追舟に乗って雀を追わなければなりませんでした。あまりのつらさに思いだすのは母柳御前のこと、母も我が子二人が恋しくてたまらず、三人は人目を忍んでは母逢の渡しで川をはさんでいつもこの川岸に出て逢って共に涙を流していたという悲話の秘められた地であります。
現在の橋は、平成元年に架けられた近代的な橋でその名称も「母合橋」と記され、橋の親柱には伝説を物語る母と子が対面する姿、欄干には雀を追う姉弟の姿等がデザインされ当時を忍ばせています。
平成三年三月 川内市教育委員会
その日暮長者が住んでいた屋敷跡が、川内小学校の裏手の高台にある。鳥居をくぐると小学校の施設と思われる遊具や、土俵まである。巨大な招魂碑も建てられている。そのさらに上の方に、屋敷跡と思われるような、石垣積みの一角がある。写真のとおり、現況は雑木林であるが、謡曲や能の「鳥追舟」を生んだ日暮長者の屋敷ということで感慨深いものがある。
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太陽の陽子さん
at 2013-07-13 00:37
x
先生、昨日から字が細んかから、見にくいでございます。
0
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attainmentofall8 at 2013-07-13 07:40
次から大きくしますね~。(^^)v
by attainmentofall8
| 2013-07-12 11:56
| ふるさと鹿児島
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Comments(2)